ハーディーの歴史

世界中に釣りを愛する人々がいる。そして釣りというスポーツの共通語の中で、最高峰を極める名前がある。
— ハーディーだ。
1世紀以上に渡り、ハーディーは世界でもっとも優れたゲームフィッシング用品のブランドとして名声を得てきた。その名は、品質と卓越の代名詞とも言える。これほどの名声は容易に得られるものではないが、ハーディーは長い歴史の中で一度もその名を汚すことなく保ってきたのである。

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ハーディーの歴史は、1872年、ウィリアム・ハーディーが、自らの生まれ故郷である英国ノーサンバーランドのアニックの土地で鉄砲工として身を立てたところから始まる。その1年後、彼の兄弟ジョン・ジェームズが加わり、ハーディー・ブラザーズ・パートナーシップ(合名会社)となった。散弾銃から拳銃まで、高品質な銃を制作し、大きな成功を収めていたが、ハーディー兄弟の釣りへの情熱は、やがて事業の方向転換を決意させるほどになった。大好きな趣味だった釣りを仕事にしたことで、ハーディーのロッドとリールの名声が生まれたのだ。
初めに、ランスウッド、ヒッコリー、グリーンハートの木材を材料としたロッドが作られたが、1880年頃までには竹製のロッドが加わった。竹を六角形に加工してロッドを作るシステムを初めて開発したのはハーディーだった。1881年にハーディーのバンブーロッド「Palakona」は展示会で同社初の金メダルを受賞したが、そうした展示会での金メダル授与のしくみが無くなるまで、ハーディーは金メダルの常連だった。1891年、初代”Perfect”(パーフェクト)リールでハーディーは特許を取得しました。
そのデザインは時を経ても色褪せることなく、途中1~2か所の小変更は加えられたものの、現在もほぼ同じ仕様のベーシックモデルが製造されている。
ハーディーは、その歴史の中で、非常に革命的な釣具のデザインを世に送り出してきたブランドである。たとえば、ブリッジリング、スパイラル・ロックファストジョイント、スタッド・ロック・ジョイント、スプリット・エンド・ジョイント、サーモン・トラウトロッド用の”W”とスクリューグリップフィッティングなどは、ハーディーが初めて商品化した技術である。また、ボールベアリング付きリールを開発し、リールのアーバーの中にチェック機構を初めて搭載したのも、1911年に大型アーバーのリールを初めて発売したのもハーディーである。ハーディーがこうして最先端を走って来られたのは、豊富な専門知識を惜しみなく投資してきたからだ。会社に携わってきた3世代のハーディー一族の中には、世界チャンピオンとなったフライキャスターのジョン・ジェームズを始めとして、何人かの優れた釣り人がいる。ジョン・ジェームズの甥は”LRH”と呼ばれ、彼のキャスティングの妙技は伝説とまで呼ばれた。また、創業者ウィリアムの孫、ジェームズ・L・ハーディー(JLH)も、トーナメントキャスティングに参加してその伝統を受け継いだ。彼は25個のブリティッシュ・ナショナル・プロフェッショナル・レコード、および10個のブリティッシュ・オールカマーズ・プロフェッショナル・レコードを保有しただけでなく、ワールド・プロフェッショナル・チャンピオン・キャスターの座に3度も輝いた実績を持つ。JLHは1992年初めに会社を引退した後は、顧問として製品開発を補佐し、1998年に待望のハーディー家の伝記を上梓した。
rekishi01ハーディーは、その歴史の大半にわたり同族会社であったが、これほどの成功を収め、合名会社にいつまでもとどめておくわけには行かなかった。1907年には有限会社となり、1928年には株式を公開した。1933年には、ハーディー・ブラザーズ(アニック)有限会社はゴルフクラブの生産にも着手した。ハーディーの木製ゴルフクラブは大いに名声を博したものの、スチール製シャフトが市場に投入され始めた1935年には、その事業は終了された。それを機に、釣具に特化した専門企業として新たに自社を位置づけることとなった。第二次世界大戦時には軍需工場となり、釣具製造が短期間休止された時期があったが、ハーディーは釣具製造の幅を順調に拡大していった。英国のアニックの土地は「ハーディーの生まれ故郷」として有名になり、毎年発行されるハーディーのカタログは、釣りの知識や釣具そのものを追求する人々のバイブルとして、コレクションアイテムとなっていった。
ハーディーの愛用者のリストは驚くほど長い。故・国王ジョージ5世や過去3代のプリンスオブウェールズを含め、前世紀のあいだに10以上の王室御用達許可がハーディーに与えられている。1967年、ハーディー・ブラザーズ(アニック)有限会社は、ハリス&シェルドン・グループリミテッドの完全子会社となった。70年代後半、業界は深刻な不況に喘ぎ、1983年には週3日営業(電力などの節約のため、週に3日しか操業が認められなかった英国の保守政策)となった。この時が、ハーディーのもっとも苦しい時代であった。しかし、この困難な状況を生き抜いたハーディーの名声は損なわれることなく、その後、グラスファイバー製よりも機能性に優れたグラファイト製のフライロッドを発売し、初の特許を取得した。 

rekishi03ハーディーのリールは、アメリカのキュードーズ・アワード・フォー・デザイン・エクセレンス(優れたデザインの商品に贈られる米国の賞)の初の受賞商品となった。また1984年には、日本の工業デザイン賞に日本国外ブランドとして初めて選ばれ、しかも1つだけでなく5つの賞を受賞した。同1984年、アメリカ市場の需要の高まりを見て、販売子会社としてハーディーUSAが設立された。1985年には、新事業拡張のために社名を “ハウス・オブ・ハーディー・リミテッド“ と変更。 翌1986年4月には、その業績が認められ、英国王室からクイーンズ・アワードが授与された。ハーディー社は、社の所有となっていた釣具の歴史的記念品を後世に受け継ぐため、アニックの本社に博物館を設立、1987年7月に、故・マーガレット王女(当時。現エリザベス2世の妹)によって開館された。展示品の多くは、世界中のハーディー愛好家、ハーディー一族及びその社員によって貸与された。壮麗な建物の半分が博物館で、もう半分はハーディー・アングラーストアとなっており、現行のハーディー商品が常に展示され、購入することができるようになっている。
1988年9月、衣料部門の需要の高まりに応じて、キルトの防水衣料の製造会社を買収した。90年代後半には需要の変化により同部門を終了したため、現在のハーディーの品揃え豊富な高機能衣料商品は、高品質な衣料商品を世界中から買い入れて展開されている。ハーディー第3の部門は、コンポジット(合成)チューブ事業である。かつてFibatubeの名前で知られたが、現在はハーディー・アドバンスト・コンポジットの名前で展開されている。コンポジットチューブ業界をリードするこの事業は、その優れた革新性、設計、品質、サービスにより、25年以上に渡りゆるぎない名声を築いている。最高品質のフィッシングロッドの製造に求められるコンポジットチューブの技術は、たとえばフォーミュラ1のレーシングカー、義肢、A320エアバス、また幅広い分野の防衛製品にも応用されている。

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